プログラム

指揮:井上道義
シロフォン:通崎睦美
ピアノ:小曽根 真
紙 恭輔:シロフォン管弦楽のための協奏曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」
ハイドン交響曲第96番「奇跡」
モーツァルト交響曲第25番

1曲目の紙氏の協奏曲は、めったに聴けない曲だったが、なかなか聴きやすいメロディの楽しい曲であった。初演は作曲者が指揮をとり、その後60年も演奏をされなかったという曲だから、今回聞けばもう2度と聴けないかもしれない曲である。なかなかの曲であるので、これからもコンサートでぜひ取り上げて欲しいものだ。

モーツアルトのジュノムは、ジャズを専門とする小曽根氏であったので、ところどころジャズ風の弾き方を披露するなど、いい味を出していた演奏であった。テクニックもすばらしく、アンコールにシロフォンの通崎女史とフィガロの結婚の「もう飛ぶまいぞこのちょうちょ」のメロディによるセッションも楽しげで、すばらしい掛け合いを聴かせてくれた。
3曲目のハイドンでは、大好きな4楽章が小気味よいテンポで演奏され気持ちよく聞くことができた。しかし、4曲目の25番では、今まで聴いたことのないすさまじいテンポで第1楽章が奏され、弦が必死で弾いているため、やや雑な感じがしてしまった。井上的な解釈であったと思うが、25番の悪魔的な面を十分に表現できなかったのではないかったと感じた。「アマデウス」で流れていたテンポが耳にこびりついていて、偏った聴き方なのかもしれないが、一度持ったイメージはなかなか払拭できないものだ。自分には、今日のテンポはしっくりこなかった。それに反し第3楽章のトリオで管楽器だけで演奏する箇所は東京フィルの管楽器はすばらしい演奏を聴かせてくれた。
ハイドンモーツアルトを続けて聴くことで、あたらに感じたが、ハイドンの曲は聴き手を中心に考えて作曲し、モーツアルトは心に潜む何者かに命ぜられるがままに作曲したように思えてならない。ハイドンの音楽は確かにメロディが美しいのだが、ハイドンの心をそのまま表出してはいない。お手前・作法が前提にある。たとえ、新しい表現をしても実験的表現であって、将来の作曲に活かすためのようにも思える。しかし、モーツアルトは心そのものを、音符ですべて出し切る。慣例なんかくそくらえとばかりに、しゃにむに思いつくままに作曲をする。今日のハイドンモーツアルトの2曲がそれぞれの作曲姿勢の典型と思えるのは自分だけか・・・・・
でも、どっちも好きなんだけどね。