東京フィル ミハイル・プレトニョフ指揮

ピアノ:レイフ・オヴェ・アンスネス
シベリウス交響詩「四つの伝説」より”レミンケイネンの帰郷”
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番
ベートーヴェン交響曲第5番「運命」
オーケストラの調弦の後、指揮者が登壇・・・ゆったりとした足取り、渋い顔・・・これがプレトニョフの第一印象であった。
「レミンケイネンの帰郷」は初めて聴いた曲であった。シベリウスらしい北欧サウンドでなかなか面白い曲であった。続くラフマニノフは?
結論から言うと、満足のいく演奏ではなかった。その一つとして、座っている席が2階RA席(ステージを取り囲む席のステージ向かって右手)であったことがある。その位置ではピアノの反響板が陰になってピアノの音がくぐもってしまい、ピアノとオーケーストらの音のバランスが悪くなってしまうのである。そのため普段CDで聴きなれたピアノの響きとバックを支えるオーケストラのコントラストが失われてしまっていた。ただ、今までもその位置でピアノ協奏曲を何回か聴いていた経験からいえば、この時の演奏ほどピアノとオケのバランスが気になったことは無かった。ステージ正面で聴いていないので、その点は確証が無いのでそれ以上はいえないが、結果的には淡々と曲が演奏されていったという、残念な結果になってしまったことは確かである。
そして、3曲目の「運命」。聴き終わるまで、ベートーヴェンの音楽とは何なのかを考えていた。こんな経験は初めてであった。プレトニョフの演奏では、運命の提示部から展開部に移る時や終結部に移る時に、極端なテンポ変化が気になった。いうなれば今まで高速道路をスピードを上げて走っていたのに、警察のスピード違反取り締まりのカメラを見つけてブレーキを踏むような感覚である。また、今まで聴いたこともないようなクレッシェンド、ゆっくり目のテンポではなく、一音一音を伸ばす演奏。第3楽章の猛烈なハイテンポ(チェロは死に物狂いであった。)これらの演奏手法は、ベートーヴェンにはどうもそぐわないのではと思った。要するに、演奏に感情を入れ込みすぎていると感じるのである。ロシアのバレー曲ならこれでよい。ベートーヴェンは違う。ケルンの大聖堂のような構築美こそがベートーヴェンの曲の中心に無くてはならないのではないのか。プログラムにある指揮者のプロフィールでは名ピアニスト、指揮者、作曲家とあった。彼自身が音楽を作れる実力の持ち主であることが災いしているのかもしれない。要するに、プレトニョフベートーヴェンの「運命」というレシピに、自信をもってマーマレードソースをかけた自らの料理に自信のある料理長なのだ。創作料理で基本のレシピを超えた料理を味あわせる芸術性としての価値は認めるが、自分はベートヴェンはオーソドックスな料理法で旨く味あわせる料理長の料理が好きである。今回、プレトニョフの運命は、ベートーヴェンの美の根源とは何かを考える格好の機会を与えてくれたと思う。大変有意義な時間であった。
最後にひとこと・・・少し冷たい印象を受けたプレトニョフの表情自体は、プレトニョフの音楽批判に影響はしていませんが、正直「少しは笑顔を見せろよな、ロシア風のニヒリズムは好かんぞ」とは思っています。
もう一言、オーケストラの方々の様子を見ていて、この演奏のためにかなり練習をつまれたのだろうと強く思った。いつも以上に指揮者の動きをしっかり把握しようという目の動きが印象的であったから・・・練習がしっかり出来ていなければ、この日の演奏はここまで指揮者に忠実に演奏できなかったであろう。東京フィルの実力もすごい!