団体展とは

友人の画伯とともに東京都美術館である団体展を観た後、講堂で開かれたシンポジウムを
拝聴する。テーマは『世界の美術の潮流と日本の団体展の現在』
パネラーはインテリ雑誌の美術担当、H美術館館長、有力新聞元美術担当記者
であった。話は中途より罵詈雑言を浴びせるような識者とは思えぬ言葉のやりとり
があったりと、聴いている方からすればスリリングな話であったが、美術評論とは
団体展とは何なのかと大いに考えさせられた2時間半となった。
出席したABC3氏の語る中で判ったことは、まず、現在様々な団体展があるが、その多くに
発足時の目的を見失っているのではないかということである。
今日観た団体展は、HP表紙には「1975年に表現の自由と発表の自由を求め、決して権威主義
に屈することのない創造の場をめざして結成いたしました。作品のジャンルは、平面(具象、
非具象)・立体・版画・イラスト・写真絵本等広範囲におよび、壁面の使用は号数の制限・点数
の制限をはずし、作家の意思を最大限に尊重してきております。」とあり、確かに今回の
作品も様々なジャンルから自由な作風を感じ取ることが出来た。
特に階上にあった絵本の作品はどれも楽しくすばらしいものが多かった。
しかし、他の団体展を観てみると、いったいどこがそれぞれの展覧会出品者の共通項になっている
のかはどうもわかりづらい。乱暴な言い方だが、どれも似たり寄ったりの展覧会の様相を
呈しているとも言えなくもないような気がする。
B氏は、大衆新聞が大衆を多く呼び寄せる団体展を取り上げなくてどうすると強く迫っては
いるものの、団体展の初志を思い出せとも言い、半ば形骸化してる個々の団体の志を認めながら
他のパネラーに「馬鹿に話してもわかるまいが」という暴言すら吐いていた。
団体展それぞれが個性を見失う今、新聞に取り上げられない(取り上げないことのクレームも
読者から来ていないという)のもしかるべしであり、その強弁こそ美術評論自体を、識者ぶった
難解な言葉で、彼の言う「馬鹿」にとって近寄りがたいものにしてしまっているのではないか
と憤った。
今回の展覧会を一言で言えば?という趣旨の会場の質問に吊るしあげられたC氏は15分しか
観ていないのでと正直に回答したが、A氏は「今年は去年よりいいですね」「会場に緊張感が
あった」というコメント。強弁のB氏は「ヒエラルキーを感じない展覧会」とお茶を濁すコメント。
結局、団体展の確固たる主体性が見えない故に言葉をにごらさぜるを得ないのではないかとも
思い、また主催者を気遣い本当のことが言えない評論しかできないのも情けないなとも思った。
さてさて、はちゃめちゃなシンポジウムであったが自分としては、考えさせられることが多く
実にためになった時間であった。
結局、我々鑑賞者にとってそれぞれの作品がどう映ったかが肝要であり、評論は評論家の見方
として耳を傾けてさえいれば良いのだなということである。昨今の団体展は資本主義に走り
経営を第一義に考えてはいまいかという話も出ていたが、団体展も是非頑張って欲しい。
パリのサロンを批判し印象派が集ったように、その志が我々鑑賞者に伝わってくるような
展覧会を是非見たいものである。
そんなことを話しながら、画伯と日本橋で一杯やりながら帰途に着く。
面白い一日であった。

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『中陰の花』で芥川賞を受賞した作者の受賞一作目。薬と酒でなんとか念仏を唱えることの
出来る躁鬱病の禅僧が、自らのアイデンティティーを音楽で表現し、開放していくさまを描いた
作品であるが、しょっぱなの薬を飲むシーンからブルーな世界が繰り広げられる。
しかし、文体はあたかも全編にわたって詩を綴られているような不思議なテンポであり、この
文体に引き込まれるように禅僧の苦悩を共感する。
学生時代の挫折、父親の破綻、自殺未遂・・・自分の経験からはあまりにもかけ離れている
にも関わらず、学生時代にはまったロックバンドに自己解放を求める一介の禅僧になぜか
共感してしまった。物語は禅僧や周囲の人々の視点に自然に切り替わってたり、まるで
お経のようにリズミカルに語られる語り口など、小説としての手法は流石である。
物語が終わってもなおオープンエンドで読者は、この禅僧の行く末を案じながら余韻を
しばらく味わうことになるが、そこがまた味わい深いところであった。