シンドラーのリスト

映画『シンドラーのリスト』を見る。
様々な思いを感じながら映画を見た。
なぜ、人間はそこまで残酷になれるのだろうか。
前に読んだ本に人はどこまで残酷になれるのかという実験が書かれていたのを思い出した。被験者に電流を流すことを強要する実験だが、被験者の多くが悲鳴を聞きながらも実験を続け、流す電流を多くしていったというものだった。平時はおとなしい人間であっても、いざ圧倒的優位な立場に立ったとき、どういう行動をするかは押して知るべしだ。映画で描かれたドイツ人たちも同じだったろう。戦争中の日本の軍隊もそうであるし、イラクアメリカ兵、イギリス兵もまた同じだ。
ユダヤ人たちをゲットーから追い出す場面で、家々から追い出されながらも、ピアノや天井、床下に隠れているユダヤ人を、夜になって動き出すのを息を凝らして様子を伺うドイツ兵たちが描かれているシーンがあったが、家に火を放てば隠れていても殺すことが出来るなぁとふと思う自分がいた。自分も同じなのかも知れないと気づき、怖くなった。
迫害されたユダヤ人とはどんな存在だったのか。
ユダヤ人の差別の歴史やユダヤ教徒キリスト教徒の対立の歴史について書かれていた本が本棚にあったのを思い出し、早速読んで調べてみたりした。
宗教って何なのだろうか。救いを求めるものでありながら、他宗教を迫害する。まさに永劫に続くパラドックスだ。迫害されてきたユダヤの民もまた、パレスチナの人々を迫害する。
なぜ、シンドラーは危険を冒しながらユダヤ人を助けられたのか。
映画では、主人公のシンドラーが、ナチのユダヤ人に対する非人道的な振る舞いを見ながら、次第にユダヤ人に対する思いが変わっていく過程が描かれていた。それだけで、危険極まりない時勢の中であれだけの行動が出来たのはなぜか。
杉原千畝は位置家族1枚のビザを発給し6000人余りのユダヤ人を助けたとされる。シンドラーは、直接ナチを関わりながらビザ発給よりもリスクの高いことをなし得ている。その勇気はどこから来ているのか。
その場に居合わせたら、自分はどうしたかを考えるのは現実的ではない。しかし、自分の身の回りをあらためて見れば、日ごろの生活の中にも、大なり小なり差別や偏見があり、善悪よりも時流に乗ることが優先する場面がいくらでもある。そんな時にどうするか・・・・その刹那こそ、ナチになるか、シンドラーになるかの分岐点であると思った。
スピルバーグは、「迫害の背景にあったのは憎悪と無知であった」と語っていた。
その言葉の意味は、実に重い。
久々にいい映画を観た。