一応読了 竹田 青嗣 『現象学入門』現象学入門 (NHKブックス)作者: 竹田青嗣出版社/メーカー: NHK出版発売日: 1989/06/20メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 5人 クリック: 64回この商品を含むブログ (40件) を見る

一番わかりやすいと聞いていた本なのに、夜寝る前に七転八倒で格闘してきた
本です。今日はここまでと本を置くと、次の日にはまた10ページ戻って読み直さない
と訳がわからなくなってしまいました。
フッサール現象学には以前から興味があったものの、フッサールの著作を紐解くのは
気が引けたので、この本からと読み始め結構時間がかかりました。
デカルトのコギト・エルゴ・スム 我思う故に我ありから始まる大陸合理論に対する
疑問、すなわち全てを懐疑的に捨象したあとに残る「考えている私」から、客観をどう
捉えるかを「神」を持ち出さなくてはならないことへの疑問でした。現象学では主観と
客観の関係を説明するのに、デカルト同様、疑えるものを捨象する方法をとりながら
も神を持ち出さずに説明をしていこうとする・・・っていうのが柱ですが、これが
また難しい。読み勧めながら、これが一体現実の世界にいて常に主観も客観も意識せず
生活している自分にどんな意味があるのかも見えないまま、読み進めているだけに
なお先の見えないトンネルを、上下左右の感覚も失いながら彷徨しているかのような
錯覚を覚えながら読んできたわけです。
ある時は、ぱっと先が見えて「ふむふむ」と頷き、次の一行でまた暗闇に落ちながら
の付き合いとなりました。前半は主観からアプローチしなくては客観とは何かを
考えることができない。後半は生活者としてこの現象学をどう活かすかという
二部構成であり、デカルト、カント、ヘーゲルハイデガーの主張と対比させながら
の説明は結構面白く読めましたが、如何せん基本のままならない自分には、ここ一番の
詰めでどうしても理解しかねてばかり・・・そんなこんなで、今回はとりあえず読了
し、また読み直してさらにより深く理解していかなくてはと思う次第であります。
前半の部分には、「わかる」ということはアプリオリに「わかる」というようなくだり
があるのですが、これ荘子の「知魚楽」そのものだなというのが率直な感想。
この話は以前に触れたのですが、こんな話です。


荘子が恵子と庭を散歩していた時、荘子が池を覗いて「魚が楽しそうに

泳いでいる」とつぶやく。恵子は「君は魚じゃないから楽しいかどうか

わかるはずが無い」とやり込める。荘子も負けずに「君は私でないから私の

気持ちはわかるまい」というが、恵子も「そう、僕は君ではないから

君の気持ちはわからない、同じく君は魚ではないから魚の気持ちはわからない」

と勝ち誇ったように言う。確かに恵子は論理的である。

しかし、荘子は最後にこういうのだ「ひとつ、議論を根本に立ち戻ってみよう

じゃないか。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』と聞いた時には

、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。僕は橋の上で魚

の楽しみがわかったのだ。」と。

この話が頭から離れないのは、物理学でノーベル賞をもらった湯川博士

中国の古典について語っていたことに驚いたのが第一で、第二にこの話の

荘子の最後の言い回しの妙に打たれたからである。

しかし、今日改めてよく読んでみると、なるほど湯川博士の真に言わんとする

ことがやっとわかった。本当はこっちの方が大切だったのに・・・

この話から湯川氏は『魚の楽しみのようなはっきり定義も出来ず、実証も不可能

なものを一切認めようとしない』科学の伝統的な立場だけでよいのかと、自らの

素粒子論研究の立場を振り返っている。

「実証されていない物事は一切信じない」か「存在しないことが実証されていない

もの、起こりえないことが実証されていないことは、どれも排除しない」という

両極端に固執するのでは、今日の科学はありえなかったのだと氏は言う。

科学のあり方を「荘子」から学ぶ姿勢はすごい。

・・・てなことを昔思っていました。
しかし、この本では、わからないことをわかろうとする苦しさ・・・これが一番よくわかりました。
でも、なんか・・・活かせそうなんですよねぇ、自分の仕事に。
また、読み直します・・・