美術館巡り

今日は実にいい天気であった。友人の画伯とともに久しぶりに美術館を巡った。
まずは、国立近代美術館へ・・・竹橋で下車して向かう途中竹橋の橋の欄干を
パチリ。周りに竹をあしらっているのは気づいていたが、よく見ると縦の格子も
竹をデザインしているではないか。なかなか粋なデザインと感心する。

本日の近代美術館は連休のサービスで無料観覧日となっていた。しかし、こちらには
「生誕100年 靉光展」のチケットがあり、待ち合わせた画伯とともに入場。
靉光は不遇の画家といわれている。戦中に思うように作品を発表できなかったばかりか
戦後日本へ帰ることなく上海の病院で病死した画家である。
今までも、近代美術館の中では自画像を何度も観ていたが、これほど多くの作品を
目にするのは初めてであった。
広島に生まれ、画家になることを家族に反対されながら、デザイン工房で働くことを
条件に美術の道を歩んだ靉光。その足跡がこの展覧会に展示されていた。
木炭画のデッサンから、まるで針で描いたかのような繊細な精密画、ロウやクレヨンを
溶かして描いた作品、まるでダリの描いたかのようなシュールレアリスムの影響を
受けた作品と、自らの画風を模索しながら様々な作品を仕上げた作者の軌跡がここに
あった。
特に印象に残った作品を挙げよう。
◆「蛾」
面相筆で、極めて精緻に描かれた作品群の中でもこれには驚いた。
デューラーの描いた「兎」を髣髴とさせるそのタッチはなかなか真似の出来るものでは
ない。作者の研ぎ澄まされた観察眼には恐れ入るばかりであった。
◆「乞食の音楽家
ロウを溶かして描いた作品群には、ユーモアと豊かな人間性が感じられる。
一枚の絵の中にすっぽりと収められた人物像は、手や顔がデフォルメされながらも
じつに生き生きと描かれている。音楽を聴きながら眺めていたいそんな作品がそこにあった。
◆「馬」
一見やせてみすぼらしくうなだれている犬のように見えたが、馬だった。
不思議と同じようにうなだれていても、犬と馬ではこちらの受ける印象が違ってくる。
馬には人間に使役されて疲れ果てたような感じを強く受け、作者の思いが素直にこちらへ
伝わってくるかのように感じもした。もう一歩も進めないような貧相な馬が、足をことさら
大きく動かしながら前へ進もうとする姿は実に哀しい。
◆「花園」
全体を赤茶けた色で統一し、朽ち果てた花園が描かれている。そこに一匹の蝶だけが
リアルに描かれ、花園に向かって飛んでいる図である。そこに、現実を非現実の対比がある。
蝶は実に精緻に描かれている。その蝶が観ているものこそ、当時の靉光の見た現実ではなかったのか
と思える作品。シュールレアリスムの影響を強く受けているのだろうが、色のコントラストもあって
蝶と花園がうまく溶け込んでいるのは靉光ならではの表現力なのだろう。有名な「眼のある風景」
よりもこちらの作品の方が自分には迫ってきた。

最後に見ることの出来るのは、靉光の自画像3点である。いずれも斜め上を見上げている構図である。
正面からも、斜めからも描かず、敢えてこの構図にしているのが靉光という画家の、生き方のような
気がしてならない。様々な作風を画壇の仲間と切磋琢磨し切り開いていった靉光の誇りが、さらに先
を見据えているかのような構図にさせたのではないか。出口には、友人が形見にと持ち帰った靉光
飯盒が展示されていた。遣り残したことも、描きたいこともたくさんあっただろうにと胸が痛んだが
不遇の画家であったとしても、靉光の短くも生きた時間は、羨ましいほど充実した時間だったのだろう
なと思った。

○常設展示のコーナーにも足を運んだ。近代日本の美術の前期に当たり、はじめて見る素敵な作品に
出会えた。メモをそのまま記す。
青木繁妙義山スケッチ」
水彩で描いたスケッチだが、画面下半分に画家のスケッチ行がスケッチされている。妙にくすぐったい
藤島武二「うつつ」
アンニュイ・・・さまにこの顔なんだろう。女性のもう一つの美なのかもしれない。
●菊地芳文「小雨降る吉野」
花びらが、はらはらと落ちてきそうである。絵の中の桜は、時間が動いたままここに切り取られて
来ている。風を感じた。
岸田劉生「壷の上に林檎が載って在る」
まさに壷の質感がここにある。光をそのままキャンバスに写しとっている。これも劉生か・・・
●山口華楊「飛火野」
鹿の跳躍が実に生き生きしている。背景は絵画であり、鹿は生き物である。