知魚楽

高校の時の教科書に載っていた湯川秀樹の随筆にあった随筆である。図書館で
本を見て回っているときに「湯川秀樹著作集」を見つけて、ふと思い出し
本を手にして探してみると6巻目にあった。
荘子が恵子と庭を散歩していた時、荘子が池を覗いて「魚が楽しそうに
泳いでいる」とつぶやく。恵子は「君は魚じゃないから楽しいかどうか
わかるはずが無い」とやり込める。荘子も負けずに「君は私でないから私の
気持ちはわかるまい」というが、恵子も「そう、僕は君ではないから
君の気持ちはわからない、同じく君は魚ではないから魚の気持ちはわからない」
と勝ち誇ったように言う。確かに恵子は論理的である。
しかし、荘子は最後にこういうのだ「ひとつ、議論を根本に立ち戻ってみよう
じゃないか。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』と聞いた時には
、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。僕は橋の上で魚
の楽しみがわかったのだ。」と。
この話が頭から離れないのは、物理学でノーベル賞をもらった湯川博士
中国の古典について語っていたことに驚いたのが第一で、第二にこの話の
荘子の最後の言い回しの妙に打たれたからである。
しかし、今日改めてよく読んでみると、なるほど湯川博士の真に言わんとする
ことがやっとわかった。本当はこっちの方が大切だったのに・・・
この話から湯川氏は『魚の楽しみのようなはっきり定義も出来ず、実証も不可能
なものを一切認めようとしない』科学の伝統的な立場だけでよいのかと、自らの
素粒子論研究の立場を振り返っている。
「実証されていない物事は一切信じない」か「存在しないことが実証されていない
もの、起こりえないことが実証されていないことは、どれも排除しない」という
両極端に固執するのでは、今日の科学はありえなかったのだと氏は言う。
科学のあり方を「荘子」から学ぶ姿勢はすごい。
巷間「学力とは何か」が論じられているが、湯川氏の著作を眺めていると、真の
学力とは「様々な分野の知の総合」のような気がする。湯川氏の真似事を今から
でもやってみようと思う次第である。
まっ大切に育てているメダカが楽しそうにしているのはわかるので「荘子」レベル
だとは思うのだが。